忍者ブログ

あきいろ道中記

旅行や城めぐり等のレポートを記載して行こうかなと思っています。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

長野県飯山市 英岩寺 鬼小島弥太郎の墓

2017年5月


上杉謙信の部下 鬼小島弥太郎の墓に行ってきました。
第4次川中島の時、主である謙信と共に追っ手から逃れつつ領地へと向かっていたが、深手を負っていた鬼小島は主の足手まといにならないようにここで割腹した、と言われているそうです。
(ちなみに、鬼小島弥太郎は亡くなったと言われる時期・場所が複数あります)

最寄は北飯山駅。
駅前の地図に記載あります。
 


英岩寺さん。
本堂に手を合わせさせていただきました。


鬼小島弥太郎の墓は、上写真の橋渡ってすぐ左に案内看板あります。
古いお墓や檀家さんのお墓を通って、獣道みたいになっている道を山沿いに歩いていくとあります。
説明看板もあるのでわかりやすい。

行ったらワンカップ大関(お酒)が供えてありました。
自分もお酒供えてお参りして帰ってきました。
(自分の持って行ったお酒は持ち帰りました)



いいやま観光局さんに英岩寺さんの情報やMAPがありますので、行きたい方はご参考にどうぞ~。







すぐ近くの飯笠山神社さんも素敵な神社さんでした。
大きい絵馬にみんなで書き込む式の絵馬なのがちょっと珍しくて面白かったです。
 

拍手[1回]

PR

新潟 上越市 柿崎城

2016年8月

柿崎景家(上杉謙信の部下)の居城と言われています。
入口には、木崎山って書いてあります。
柿の市部分どこ行ったんだろう。


柿崎駅から歩いていける。入口が分かりにくいのですが高速道路に囲まれた山…と言うか丘で、川の土手から入口に入れました。


怪しいトンネルを抜けると…そこは二股の道。
なお、どっちから登っても頂上につきます。

蟹がいる…。
さわがにじゃない?とか言われた。



藪だらけでよくわからないからかもですが、遺構っぽいところは見あたらず、頂上だけ平坦になっており、展望台?があります。



この山(と言うか丘?)だけだと、戦の守りは無理かなーって登ったところ、これはなかなか眺めがよい。
流通にも戦にも便利そうな川が横に流れ、目の前には大きな海。
多分流通街道も海の前にあったんじゃないかな。監視とかによさそうかも。
もしここに居城あったなら、この山の麓にお屋敷があって、物見のための山ってかんじかも!とか思いました。

高速道路側に看板。こっちは「木崎城」じゃなくて「柿崎城」だった。


あと、高速道路につながる出入り口?があったので、なんかあったときの避難とか、高速道路工事の人が入り入口と過なのかも?とか思いました。

拍手[0回]

柿崎時代祭

2016年8月


柿崎時代祭にあわせて柿崎家文書展示やってたので行ってきました。


会場につくと、スピーカーから聴こえる
「か~きざ~き かっげいえくん♪」
※地元のゆるキャラ、かきざきかげいえくんのテーマ
\ゆるい!!!!!/


地元の太鼓団体、謙信流太鼓、山梨の太鼓団体の太鼓演奏とかありましたよ。
お祭りの太鼓っつーたら同じようなものかなーと思ったら、全然違って面白かった。
山梨(だったと思う)のが、一番自分の地元である関東と音が似てて、馴染みがありました。
やっぱり近い土地のが、似た音になるのかしら。

上越の軒猿衆、上田の真田の方々演じる柿崎vs武田の戦いなどもあり、
地元のちびっこに「がんばってー><」とか言われる柿崎景家。ほのぼの。
 
真田昌幸さんvs柿崎景家さん。 

そして会場の旗印が二股大根。
※柿崎景家さんの戦で使う旗の家紋的な絵が、大根。(蕪とも言われてる)
(とか言って、あの二股大根実際に使われてた旗印だったらすみません)
(なんか、これ以外も会場のさりげないお笑いセンスがすごいよかった…。全体的に。)

戦のあとには、ちびっこ殺陣教室などもあったよ。
かわいい。


地元にうまく楽しく密着した、いいかんじの時代祭でした。
おもしろかった。
屋台の食べ物むっしゃむっしゃしながら見てた。




ところで、柿崎駅近くの海水浴場がすごくきれいで感動しました。
白い砂浜じゃなくて、灰色の砂浜だった。砂粒大きめ。
砂質が、川の砂浜っぽいかんじ。

拍手[0回]

柿崎家文書特別展示

2016年8月


柿崎家文書が、上越市に寄付された記念の特別展示行ってきました。
学芸員さんの展示説明も!


展示されている書状は前から存在は確認されていたものなので、1通を除いて上越市史の上杉家文書に掲載済み。

学芸員さんの説明で面白かったのが、
普通の人は書状が展示されてても何を書いてあるかはわからないことがほとんどだけど、書状の折り跡や年月による焼けで欠けた書状の形から、元の畳み方を推測するのがおすすめ!って話。
手紙をどんな形で持ってきたのかが、焼け方でわかりますよって話で、ほんとだ!!と。

(ところで、↑の紙の一部で結ぶのってほどけないのかしら)

折り方でも、書状の重要度とか各家の作法とか違うそうなので、覚えるととても楽しそう。
墨の色や、文字の細さでも決まり事があるんですって。め、めんどくさ…。
 けど、そういうのって外交にすごく大事な部分で、各家の礼儀なども熟知してないといけないはず…。
柿崎景家さんはそんな外交奉行だったので、知能派だったと思いますよとのこと。
自分も、柿崎さん外交奉行ってことは頭いいと思う!って主張していたので嬉しい…。


あと、これらの書状を「柿崎家が」持っていたことにも意味があると。
柿崎家宛てじゃないものがあったり、
柿崎景家が処刑されたであろうことを示す文章があったり。
(亡くなった理由に、病死説と謙信に処刑された説がある)

あと、景勝が謙信生前から後継者扱いされてたかどうかがわかりそうな書状もあるけど、うまい具合に大事なところが読めなくなってて、これが読める状態ならなぁとか。
わざと読めなくさせたってこととかはないのかなーと、聞きながら思いました。


説明もわかりやすく、とても面白かったですよー。


拍手[2回]

新潟 上越市 岩手城(通りすがり)

2016年8月

柿崎景家さんの菩提寺の楞厳寺さん近くの岩手城。車内から撮影。




上越市の学芸員さんが、自分はここが柿崎の本拠地だと思ってるとおっしゃっておりました。

柿崎駅の近くにも柿崎城ってのがあって、柿崎景家居城とも言われてるのですが、
そっちは居城ではないのでは?と言われているみたいです。

わりと居城の麓に菩提寺ってあるし、なるほどーとかも思ったけど、
米山寺城のが楞厳寺さんから近いし、なんであえての岩手城なのかしら。
何か調査結果とか、地理的なものとか、曲輪とかが住みやすそう~とか。気になります(´▽`*
機会があったら、登ってみたいですね。

拍手[0回]

ブログ内検索

最新コメント

最新トラックバック