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あきいろ道中記

旅行や城めぐり等のレポートを記載して行こうかなと思っています。

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佐野市郷土博物館「上杉謙信がやってきた」展

2015年6月

栃木県佐野市


佐野市郷土博物館「上杉謙信がやってきた」展を見にやってきました。
謙信が何度も攻めてきた(5~13回くらい?)唐沢山城が国指定史跡になったお祝いの展示会なのかな?
唐沢山城も行きたかったのですが、あいにくの曇り模様。
雨が降りそうだったので、今回は諦め。



佐野駅下車。
てこてこ歩いて行って、秋山川を抜け、もう1個川の先に




佐野市郷土博物館です。




ちょうど、唐沢山城ゆかりの民話の講演会が始まる時間でした。
急な聴講可とのことでしたので、参加させていただきました。
三井寺物語絵巻(全3巻)と言うのが残っており、それに書かれているお話しなのかな?
・(藤原)秀郷のむかで退治 →平安
・唐沢山の井戸       →唐沢城建城時(平安?
・(藤原秀郷娘)富士姫物語 →平安
・怪力士 (足利)家綱   →平安。菅原道真の頃
・(足利)忠綱と十二御前の森→源平合戦頃
・須花の七つ塚       →おそらく戦国(長尾が攻めてきた頃
・避来矢の鎧の不思議    →江戸

この類の民話ってもちろんイコール真実ではないんだけど、何故この場所でこのような話が伝わってきたのか、とか考えると面白いですよね。


この後、館長さんの「上杉謙信がやってきた」展の展示物説明。
上杉謙信が何故何度も唐沢山城に攻めてきたか、
唐沢山城主の佐野家は、何故上杉・北条に何度も寝返っていたのか
唐沢山城が上杉・北条・織田と各城の作り方で築かれている
などなど。
そのような説明受け、それぞれの展示物についても説明。

なかなかこのような説明を受ける機会もなかったので、貴重な体験をさせていただきました。
「上杉本洛中洛外図屏風」なんかも、何度か見ている(現物も写真も)のにも関わらず、新しい驚きもあり。
専門の方々は違うなぁと感心したりしていました。

その後、各展示物をじっくり観察させていただいたりメモらせていただいたり。
常設展(民具等のフロア、田中正造フロア)なんかもじっくり見せていただいて、
なんだかんだで結構長時間楽しませていただきました。
民具好き。

民具のところにあった「どっきりほうちょう」が何をどう使うものかわからなくて、なんか気になってた。
どっきり包丁…?




駅‐佐野市郷土博物館の間にあった史跡?
須永元と言う漢学者さんの生家跡らしい。

   


同じく途中にあった神社。星宮神社。
名前とお社が素敵でしたので、ちょっと立ち寄り、お参りさせていただきました。
白蛇様の石像?もあったので、白蛇様も関係してる神社なのかしら。
 



道路にさのまるがいっぱい。
佐野市って、さのまるのおうちかー。
PAとかでよくさのまる見かけるので、さのまるは知ってました。かわいい。





この後、佐野城に向かいました。
佐野城については、また次回の記事に。

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仙台城とその周辺

2007年7月
※以前の記事の修正版です。


仙台到着!
途中、白石であまりの豪雨に観光可能かドキドキものでしたが、仙台は小雨。

仙台駅に伊達政宗の像があり。
地元民たちの待ち合わせ場所にされている伊達政宗。



るーぷる仙台の一日乗車券を購入。¥600。
これ、便利なんですよ。これを提示すると割引してくれる施設が結構あります。
瑞鳳殿が100円引き、青葉城資料展示館が200円引き、仙台市博物館が80円引きです。
伊達巡りするのであれば、損はなし。(2007年時。現在は未確認)


これが瑞鳳殿の入口。
坂を登って行ったところに瑞鳳殿があります。
   



入口のところに看板と、謎の小道がありました。

穴倉稲荷神社
看板説明文一部抜粋。
 ~伊達家は稲荷神社を古くから信仰し、居城近くに神社を祀り武運と繁栄を祈願した。
 政宗公も出陣の際には戦勝を祈り、愛姫も守護神として深く信仰し安産を祈願した。
 この神社は少林城(後の若林城)近くの荒井の里に祀っていたのを万治年間に鈴ノ沢(現在地とは少し違う)に移転し、穴倉稲荷大明神と称した。また、夕日明神とも言われた。

政宗さんが米沢からわざわざ移築したそうです。
米沢→梁川→若林城近くの荒井村(若林城城郭作成のため)→鈴ノ沢(青葉城に向けるため)→現在地(鈴ノ沢が川の氾濫や崖崩れに巻き込まれそうだから)
引越しさせられまくるお稲荷さん。

せっかくですので、寄らせていただくことにしました。
小道の先にある、あまり人の来なさそうな雰囲気の素敵な小さな神社でした。





鹿児島県人七士の墓
西南戦争で従軍して、戦後官軍に投降した西郷軍の人たちのお墓だそうです。
国事犯として、全国の監獄に送られました。
国事犯たちは自ら宮城県内の開発を願い出て、明治初期の宮城県の開発に大きく貢献したそうな。
で、そのうち13人が獄中でお亡くなりになり、遺族に引き取られなかった7人のお墓がこの地に残っているそうです。
心より、ご冥福を祈ります。


瑞鳳殿
この階段は「人が登ること」でなく「馬が登ること」を想定して設計されているそうです。
歩くには向かない階段とのことです。


途中に手水所がありますが、昔は湧き水だが井戸だがあったけど、今はないとか。
政宗さん辺りの頃は手水所自体なかったみたいだけど。


登りきったところに瑞鳳殿。入場料支払って中に。
政宗さん(政宗)の霊屋入口、涅槃門です。
普段は閉じられてて、政宗さんの命日の5/24とかの法要が執り行われる特別な日にだけ開かれるそうです。
  

展示館前にある臥龍梅。
政宗さんが朝鮮半島から持ち帰って若林城に移植したものと言われているらしい。


展示館は小さな建物。
ちょうど二代目藩主 伊達忠宗特集中でした。政宗の次男。
(政宗さんの長男 秀宗は宇和島藩主です)
なかなかの名君だったそうです。
パパの政宗さんは当時の平均身長だったけど、忠宗さんは身長も高い!
体格にも恵まれ、勇猛な方だったみたいなことを書いてあった(と思う)。
瑞鳳殿再建の際の学術調査で身長はわかったそうです。

初代 政宗さん:159.4mm B型。(当時の男性の平均身長)
二代 忠宗さん:166.3mm A型。
三代 綱宗さん:156.2mm A型。(少し小さめ?)
遺骨からの結果では、政宗さんが本当に隻眼だったかの確認はできなかったとのことです。
少なくとも、傷はなかったので、隻眼だったとしたら伝えられているように病気で隻眼になったのであろうとのことでした。

展示館には、お棺から出てきた遺品、初代~三代の頭蓋骨の模型、具足、遺髪、頭蓋骨から調査して復元した姿(等身大模型)などがあります。
政宗さん、なんかこう…どっかで見たことあるような顔…。
現代にも普通にいそうなおっさんです。

確かここで書いてあったと思うのですが、伊達政宗で有名な兜のお月様あるじゃないですか。
あれ、遺品の中にあったけど、お月様部分はなかったんですって。
お月様があったこと自体は確認できたので、付いていたことは確か。
つまり、お月様部分は腐敗する素材、木で出来ていたのではないかな、とのこと。




伊達政宗さんの霊屋
全体像が取れなかったので、少し加工した写真になっています。
左右の塔は、政宗さんの葬儀に先立って殉死した家臣15名と陪臣5名。
  

左写真が三代 綱宗さんの霊屋、右写真が二代目 忠宗さんの霊屋。

瑞鳳殿自体は忠宗さんが建てたみたいだけど、場所決めたのは政宗さんだったそうです。

小道から出たところに公子公女の墓。
五代目以降の、若くしてなくなった子供たちのお墓だそうです。
いつの時代でも、幼い子を思う親の気持ちは一緒ですね…。






バスで移動し、博物館・国際センター下車。
博物館を見ようと降り立つと、すぐに『仙台城』と言う文字が見える。


堀・片倉小十郎邸跡。
大橋側から仙台城に向って見て、道路の左側全体が小十郎さんちだったそうです。

なお、石碑は大橋前にあります。
片倉小十郎邸跡 石碑
  


仙台市博物館
いよいよ青葉城こと仙台城の敷地へ入ります。


五色沼、三ノ丸 子の門跡を抜けるとそこに仙台市博物館が。
今回は常設展のみ入りました。(一緒にやってたエジプト展も楽しそうだけど、時間の関係上)
書状がとても多いですね。花押や判子の紹介も。
誰のだか忘れたけど、どっからどうみても小学生のサインか、花押考えるの面倒だったのかとしか思えない花押発見。一人面白さの余り酸欠。
(自分の名前の最後をぐるぐる模様で伸ばしただけ)

判子と花押は、
 花押→手紙本文。
 判子→手紙の添付資料、領地を分け与えることを命令文
みたいに使い分けるんだって。判子=資料ってことかな?

政宗さんなんかは公式な書状と、プライベートなお手紙でも花押分けてるんだね。
公式な書状のはよく言われる鶺鴒(セキレイ)の花押。なんかかっこいいヤツ。
プライベートなのは…なんちゅーか。大福みたいなヤツ。
あと、プライベートのはひらがなが多かった。(公式な書面は普通漢字を使用するので)
判子は『龍納』って文字。
つまり、龍=自分(伊達政宗)ってことですかね。
政宗さんの字がとてもうまかったです。
あと、年月が経つに連れて、同じ花押でも雰囲気が変わってきてておもしろい。
あと、石田三成からの書状とかもありました。
内容は~政宗さんがお引越しするから、三成が家屋の解体お手伝いしますって手紙。らしい。
そもそもお引越しは秀吉が命じたんだったような気がするので、友好的な意味ではないような気が。

もう一つの常設展示室は江戸時代のみ。(と言うか政宗さん)
政宗さんの具足(頭半月のやつ)や、上杉謙信からもらった3面に顔がついている具足がありました。

青葉城の全体模型もよくできていてすごい!全体模型があるとわかりやすくてよいですね。

七夕に近い季節だったので(仙台の七夕は旧暦?)、七夕関係の展示も。
七夕に政宗さんが読んだ和歌が2首残っています。
・まれにあふ こよひはいかに 七夕の そらさへはるる あまの川かぜ
・七夕は としに一たひ あふときく さりてかへらぬ 人のゆくすえ

1首目:
 七夕で稀に会える(織姫と彦星は)今宵は会えるのだろうか。天の川の空さえ晴れれば
2首目:
 (織姫と彦星は)七夕に年に1回会えると聞く しかし人の行く末はわからないものだ
でしょうか?古文の成績悪かったので自信ないですが。
七夕の和歌が政宗さん以外にも残っているし、明治になって13代目藩主が言った言葉によると、伊達家では七夕には毎年和歌を詠んですごしていたみたいです。風流だねぇ。


あと、政宗さんがローマに派遣した支倉常長の展示とか。
支倉を書いた油絵が残っているのですが、そんなに今の人と顔は変わらない。
身長とかに差異はあっても、まぁそんなに顔って変わるものじゃないですねぇ。


そういえば、ここでだっけなぁ?この次のトコ?で、政宗さんとお母さんのお東ノ方のお手紙のやり取りが残っていたのですよ。
溺愛していた次男が政宗に殺されてしまった後。いつ頃の時期かはわかりませんが。
よく政宗さんってお母さんに疎まれてたと言いますが、こんな風にやりとりもしていたのかと。
複雑な想いはあったにせよ、それなりに愛があったといいなぁと思います。
(お母さんのお墓をわざわざ自分の近くに置いているし、政宗さんがお母さんを愛していたのは間違いないんじゃないかなーとは思う)

写真撮影は可能か聞いたところ、フラッシュしなければとOKしていただけました。
いつもいいのか、許可もらいにいったからOKしてもらえたのかはちょっとわからないので、行かれる方は確認ください。


白萩と秋川石。
ここにあるのは現物ではないみたいだけど、なんでも五日市町の白萩を見て政宗さんが感動して後ほど所望したそうです。
その関係で、友好の証に白萩と秋川石を五日市町から仙台市が譲られたらしい。



政宗さんの胸像。
元々は青葉城にあった騎馬像だったんだけど、第2次世界大戦で徴収されてしまって、胸より上だけが残ったんですって。
今、青葉城にあるのは新しいヤツ。


仙台藩御用酒発祥の地
っちゅー石碑前を通って、曲輪の道を進む。ここは沢の曲輪かな?
石垣!!
ここいらが曲がりくねった道なのは、戦のための天然の城壁だったためです





沢の門に出て、このまま本丸へ。



青葉城跡(仙台城)本丸
青葉城入口と言いますか、今はどっちかと言うと護国神社入口です。
青葉城跡地には現在、護国神社が建っております。


こちらの石垣はつい最近修繕されたものだそうです。
ちゃんと当時(建設当時なら400年前辺り?)の方法に沿って修復したんですって。



仙台城見聞館
左側トイレ。右側見聞館。
内容は、城跡発掘についてと石垣修復工事について。
ちなみに、写真左端に写っているのは石垣修復についての展示品。
石垣の中身ってこんなんになってるのかーと言うのがわかっておもしろい。


青葉城(仙台城)跡地から見た仙台の街。
風景は大分変わってしまったけど、政宗さんたちが毎日見下ろしていた街ですよ。
仙台城跡周辺MAPがあって見てみたら、若林城がとても近いことに気がつく。
気になったのですが、地元の方とお話ししたところ、今では宮城刑務所になっていて、行っても多分つまらないよ~とのことでした。



伊達政宗騎馬像



青葉城資料展示館

こちらもフラッシュは禁止ながらも写真OKでした。

戦国時代のJIS規格と言う展示ありました。
えーと。具足を至近距離から鉄砲で撃って、穴が開かなければOK!ってしていたのですって。
やっぱりその辺りの基準ってあったのですね。

300inchのシアター、『CG映像 仙台城本丸大広間編』
ちょっととぼけた老人政宗さんとその側近小十郎さんのボケツッコミ仙台城紹介です。
色んな意味で大爆笑です。なお、いい意味でです。
仮にもシアターですので、顔がニヤけと言うか、引き攣りそうになるのを必死で我慢する自分。
後ろで堪え切れず「っぶふ!!」と噴き出す見ず知らずのお兄さん。
うん。お兄さん気持ちはわかる!!
 政宗「おぉ!これは自動ドアじゃの~便利じゃの~~」
 小十郎「政宗さまは博識ですのぉ」
 政宗「ふふん。これくらい知っておるぞ!(得意げ)」

細部は異なりますが、こんなカンジの仲良し主従コンビの繰り広げるおもしろ仙台城紹介…。
このシナリオ書いた人最高……。DVD発売されてませんかねぇw




埋門からタクシーで移動。
ちょっとお話ししていたところ、タクシーの運転手さんは伊達家より国分家好きだそうです。
政宗さんの前の領主さん。400年もずっと領主してたんだって。


仙台武家屋敷
武家屋敷なのは外見のみで、中身は博物館。


具足とか刀剣・陶磁器などもあるので、そっちの方が好きな方は楽しめるかも。
国分氏のジオラマとかがありました。
仙台城は政宗政宗なので、国分氏さんを調べたかったら、こっちのがおもしろいかもですね。




青葉城周辺散策

二ノ丸跡・二ノ丸詰の門跡
東北大学って、青葉城二ノ丸跡に建てられたんですって。
二代目からは政治の中枢が本丸から二ノ丸に移ったそうですよ。
  
   
支倉常長像。

仙台市博物館にいっぱい資料のあった、政宗さんにローマに派遣された人。
キリシタン。
この人自身はキリシタンでもあるのにも関わらず52才で病没と、そんなに悲惨なことにはなっていないのですが、息子さんはキリシタンの部下?を持ったかどで処罰されています。
あと、布教のために長崎に密入国したソテロさんは火刑にあってる。
政宗さん自身キリシタンだったとも言われているようですが、何だかんだ言ってキリシタンへの処罰って厳しいですね。
政宗さんキリシタン説は、遺品にロザリオ?が入っていたことと、正室の愛姫がキリシタンだった(らしい)ってことからだそうです。
ロザリオって言われている遺品が私の目にはロザリオと言うかブローチっぽかったです。こういう形状のロザリオもあったのでしょうか?


二ノ丸大手門
隅櫓のトコに大手門があったようですので、青葉城に入るのはこっちが正式みたい。
隅櫓~と二ノ丸側の石垣
  

多分、石垣あるし中の曲輪?


広瀬川側の崖から、断崖絶壁だのーとか、あの辺りに伊達家別邸があったのかな?と推測。
ギリギリまで行くと何かあるかな?と思ったら、巽櫓跡発見。




再び埋門から出て、今度は御裏山(あれ?御裏林だっけ?裏山だよね?)と青葉城の間の道を歩いて、青葉城1周。
その前に、竜口渓谷を見たいなとちょっと道から覗いてみたが、木が生い茂っていてよくわからなかった。
でも急な坂で、落ちたら戻るのは無理そうかなぁ。なにかヒモでもないと。



それから詰ノ門に戻って、再び沢の門から沢の曲輪へ。
清水門。
仙台藩の御用酒作りに使用された湧き水のすぐ近くにあったからこーゆー名前なんだって。
ちなみに、今現在、その湧き水はサルモネラ菌だったかなんだったかが出ているので飲めません。

仙台城酒倉跡

政宗さんに命じられて、ここでお酒造ってたらしいよ。
政宗さんが若林城に移ったときに、一緒に若林に行ったとのこと。
日本酒だけでなく、ぶどう酒、みかん酒、びわ酒、みりん酒も作ってたそうです。
おいしそう。

三ノ丸巽門跡


三ノ丸東側土塁跡



左:三ノ丸 子の門跡 中:三ノ丸・堀 左:五色沼奥でたくさん咲いてた花
   
仙台市博物館の入口。
堀のトコが五色沼。
このオレンジの花が奥の方でこっそりとたくさん咲いていてキレイでした。
湿ったところに咲く花なのかな?
始めて見た花だけど、なんて花だろう。百合かな?かわいい。

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春日山城 謙信公祭

2007年8月
※過去記事の修正版です。


 
春日山城史跡広場?だっけ。
謙信祭イベント会場。毘沙門天と乱れ龍の旗が空にたなびいておりました。



春日山城のお堀?
ここの鴨が暴れたら敵襲ーって判断の一つになってたとか。
  
道に迷いつつも春日山城こと春日山神社に着く。


春日神社。中に入ってないー。通り過ぎました。




春日山神社





甘粕さんの屋敷跡。
全体的に『屋敷跡』の平坦部が狭すぎるんじゃないかなぁ?と
思っていたが、なんでも斜面に屋敷を建てていたらしい。
平坦部だけに建っていたわけじゃないのね…。



三の丸。上杉三郎景虎屋敷跡。
謙信の養子の一人で、姪婿。
義弟である景勝さんとの後継者争いに負けて、お亡くなりになりました。
立派な看板アリ。小説『炎の蜃気楼』で訪れる人が増えたらしいです。
米蔵跡とも書いてあったので、米蔵があったのですね。城機能の中核施設。



土塁。



二の丸屋敷跡。
中腹あたり。
台所屋敷、人数溜、お二階、二段目があった、という説明はわかるんだけど、「お茶屋」があったって看板にありましたが、お茶屋‥‥?
茶室のこと、でしょうか??それとも休憩所とか、本当にお茶売ってるとか‥‥。
近くに笹井戸跡って井戸があった。こわい。
看板なかったら、足突っ込みそうです。草に覆われてるし。
 


樹齢500年くらい?の木があった。(確か)
謙信たちがいた頃にもあったはずだよ、と歴史ボランティアらしきおじさんが教えてくれました。

御成街道
関白だった近衛前嗣が通ったからこの名前らしい。


柿崎屋敷跡
広い平坦地。
ここから桑取道(春日山古道)に入れるそうです。
昔は重要な軍道だったそうな。
今は散歩道程度に整備されているそうなので、いつか歩いてみたいなぁ。



景勝屋敷跡
ここから三郎ちゃんの屋敷に銃撃したとか言われていた気がするが、
今では木が生い茂ってよくわかんなかったよ。



井戸曲輪
すごいでっかい井戸!!
サイフォンの原理で、勝手に湧き出してくるらしい。すげー。



横の崖は油流しと呼ばれているそうです。
あまりの急斜面で、油を流したように滑ってしまうことからだそうです。




本丸・天守閣跡。
イベントで使った狼煙の燃えた後がありました。




護摩堂
謙信が戦勝祈願や息災をお祈りしたトコ。らしい。
今はお堂っぽい休憩所があります。


毘沙門堂
謙信が拝んでいた尊像は米沢にあるんだけど、そのかけた部分をお腹に入れた分身が
安置されているそうな。


お花畑
お堂にお供えする花とか、薬草などを育てていた場所だそうです。
少女趣味な謙信のことだから、趣味も兼ねていそうな気が微妙にする。



直江屋敷。
お花畑の真下。ろまんちっく?


虎口。
虎口って…。あの虎口だよね…。
土塁で作ったそうな。
うーん。でも、石垣の平城の虎口のイメージが強すぎてピンと来ないなぁ。
今度行ったらちゃんと見てみよう。


帯郭。
山城で特に大事なトコを守るためによく作られたそうな。
本丸周辺と直江屋敷と囲むように作られていることから、直江家の重要度がわかるなぁ。


空堀。
そういえば、武田の要害城にもあったなぁ。
普段は橋がかけてあったそうです。
イザって時に堀が道を分断する役割になるのね。


千貫門
道っぽい切通しが近くにあるのだけど、侵入者が来た時に突き落とすだけの
空堀の底だそうです。
…。痛い痛い。


お屋敷。
神社の右側の下の方だそうです。
城主の屋敷跡…。ってことは謙信も?
ん~。ちょっと勉強不足でわからない…。今度調べます。
説明文にこんなん書いてあった。
「お屋敷」と名付ける大きな郭(60x110メートル)がある。
上下に右近屋敷そのほか大小の郭があり「根小屋」を形作っている。
その下に黒金門や蓮池があり、この口が府内口で、春日山神社の郭の道が通じている。



神社に戻ると、出陣式の直前。いいところで戻りました。
上杉武将(役)の人たちが神社で必勝祈願。
武田軍勢も揃っています。


火縄銃の実演も。
すげぇ音!!!あと煙。
火縄銃実演は始めて生で見ましたが、すごいですね。
予想していたよりもすごい迫力です。
煙で前が見えなくなることは確実そう。






大名行列…でない…武将行列……?
行列が動き出す準備が始まったので、着いていきました。
個人的には、殺しあってしまった景勝・景虎義兄弟が仲良く一緒に歩いているのにちょっと感動しました。

 

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川中島合戦

2007年11月
※過去記事の修正版です。



川中島合戦場

行ったら川中島合戦中でした。
この時は、イベント日と知らずにいったので、ちょっとびっくりしました。
合戦のリハーサル中の写真ですね。



長野市立博物館
風林火山展及び、常設展がやっていました。
風林火山展は本当に『大河・風林火山』の展示会です。
常設展は合戦のはあんまりナシ。
弥生時代の暮らしと、戦国~江戸の農民の暮らし中心。
農民具とか見るの好きなので、楽しかったです。
名主のおうちとか。地震計の展示も多かった。地震が多いトコなんだって。
昔の中国の地震計(震度はわかんないけど、震度1とかでもわかるようになっている計測器)の模型があったよ。



有名な信玄と謙信の一騎打ち像。



第4次川中島合戦の戦没者の首塚の内二つ。

海津城主・高坂弾正が敵味方の区別なく葬ったそうです。
(普通は敵戦没者は葬ってもらえないし、略奪の対象にもされる)
首塚はほかにもいくつかあるらしい。
塚の下には、今でもたくさんの首が埋っているのでしょうか。



妻女山
謙信の陣地跡。
なかなかよい景色で、戦場を見渡すのにも最適です。
  

車で登る道の入口には、『謙信槍尻の泉』と言うのがありました。
なんでも、謙信が槍尻で着いたら水が湧いたと言われているそうです。そんなバカな‥‥。
まぁ、実際そんなワケはないのですが、川中島には信玄・謙信の伝説が多々残っているらしいです。
最初「謙信尻の泉」と読み間違えた。



海津城(松代城)

左:北不明門、右:天守台跡
初代城主、高坂弾正。
いくらかの城主の後、真田信之が城主になり、幕末までずっと真田の城だったそうです。
海津城は本丸と少し二の丸が入れます。
海津城と松代城が同じものだと、この時初めて知りました。
門は復元。石垣は一部は残っていたもので、修理や復元をしたものらしいです。
近所のおうちとかも、新しい建物ほど和風になっていました。
観光助成金とかでも出てるのかなぁ。



真田宝物殿
見ていると妙に素人くさい作品が多々あり、説明を見ると必ず「xx代藩主の作品」。
なんかこう、有名な人だとこう言うの残るんだなぁとかちょっと思いながら見てました。微笑ましい?かんじ?



有名な真田家文書とかも宝物殿で売ってましたー。

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浜松城と家康めぐり。

2015年5月


浜松城中心に浜松家康めぐりしてきました。
家康の散歩道」と言う家康関係の史跡地図も浜松市が提供していたし、あらやだ便利―と思って。

一番行きたかったのが、信長さんのせいで家康に暗殺?された家康の正室の築山殿の死去地「太刀洗の池」だったので、一番駅から遠いそこまでバスで行ってスタート。


一旦博物館前でバス降りて、歩いて5~10分くらい。結構坂がある。


信長さんの娘さんが家康-築山殿の息子の嫁さんだったのですが、
息子夫婦が上手くいかなかったこともあり政略の犠牲となってた、と言われていますね。
ただ、息子さんの信康は切腹なのに、築山殿は暗殺ってのがちょっと疑問には思っていたり。



ずっと別居していた旦那さんに呼び出されて、期待と不安でドキドキしながら浜松城に向かっていたら、突然の暗殺‥‥とかだったら、って思うと、なんとも切ないです。
ちなみになんで築山殿の肩そんなに持つの‥‥って言われると、好きな小説「女にこそあれ次郎法師」に出てくる築山殿がプライドが高いがゆえに素直になれないツンデレお嬢様でかわいかったから‥‥´▽`;
女領主 井伊直虎(家康部下の井伊直政の叔母)主人公の小説。おもしろいよ!


一旦、浜松市博物館まで戻る。
蜆塚遺跡(縄文時代約3000-4000年前)があったので、住居跡(復元)に入ったりして遊んでみた。
あと林にリスとかいた。
 

 
もちょい奥にある旧高山家住宅もおもしろかった。
浜松湖で漁業・農業を営んでいた高山家の住居。安政(1854-1860)の頃分家し、古い建物を購入・移築したと書いてあったので、安政よりも古い建物なのかしら?
江戸時代終わり頃の浜松湖東岸での標準的な住まい、だそうです。
床上2間、土間1間‥‥結構広い。




わりと長居した。
浜松市博物館に入りました。
写真撮影OKだったんですが、ブログにUP OKか聞くの忘れてた‥‥。
中は小さめですが、体験コーナーが多くておもしろいです。
銅鐸鳴らせたり!(うるさいし、めっちゃ響く)
本物の土器触れたり!!(縄文・弥生・戦国で触感比べられる)
火打ち石叩けたり!!!(火花散らないし、鉄で手がめっちゃ臭くなった)
火打ち石、気にはなるけど‥‥ってずっと思っていたので、試せて楽しかった。
買っても使いどころがないし‥‥。キャンプ‥‥。

古代は川に太刀を奉納したりするんですね。嵐や洪水の時はわかるけど、定期的にやるものなのかしら。あと呪符(複製)とかあった。
蜆塚遺跡の博物館なので古代が半分くらいで、残り半分で戦国~近代。
家康没400周年だっけ?で、家康関係の写真展示も色々でした。
知らないのもちょいちょいあって面白かった。




西来院
築山殿のお墓があるお寺さんです。
いわゆる観光寺ではないですし、築山殿のお墓は檀家さんのお墓があるエリア?のようでしたので、本堂の前で手を合させていただき帰りました。
後で地元の方にお聞きしたところ、本堂でお寺さんにご挨拶して、築山殿のお墓をお拝ませていただけないかお願いすれば、拝ませていただけるようです。


行く途中の道路に西来院の石碑。昔はここまで参道?だったのかな。
今でも参道なのかな。



普済寺
三方が原の戦火で焼失して、昭和に再建されたお寺。
昔は月の名所だったそうです。消失した時に色々なくなっちゃったのですかね。

ちなみに立ち入り禁止看板があった。幼稚園もあるもんねぇ。


浜松城



作左曲輪前の、昔の浜松城の地図。木でできててなんかかっこいい。



作左曲輪

家康さんちの重鎮の本田作左衛門重次の住居があったところ。鬼作左さん。
昔の米倉があった場所なので、城にとって大事な米倉の守護としてもここに住んでたのかな。


浜松城の石垣と天守閣。

正直、浜松城で大事なのは模造天守ではなく、昔から残っている石垣なのである。
野面堤って言う、加工してない石をそのまんま積んだ古い石垣の積み方。
良く崩れないよねぇ。
個人的には、この積み方かっこよくて好き。




地下に井戸がある。こわい。なんか出そう。


当世具足(戦国時代の甲冑)の開き図面とか、
謎の四角い酒樽とか(どっから酒出るの)
刀の二条城勤番者外拵、所司代拵とかも面白かった。わりと一般の武士の刀って見かけない。
室内用薙刀、室外用薙刀とかも。

天守門。
2014年3月に史実を元に伝統工法で復元されました。
中にも入れるし、中には石落としとかもあるよ!




夏目二郎左衛門吉信の碑
三方ヶ原合戦の時に、家康の身代わりで亡くなった家臣さんの碑。



犀ヶ崖[さいががけ]古戦場
浜松城から北1kmにある崖。当時長さ2km、幅50m、深さ40m程度。
三方ヶ原合戦の時に、家康軍の夜襲の罠にひっかかって、武田軍のおおくの兵がこの崖に落ちて亡くなりました。
家康軍も逃げてるだけではなかったんですね。
今はだいぶ埋め立てられていて、深さも1/3~1/2くらいになってますが、それでも覗くと怖いくらいの高さです。
戦とは言え、亡くなったたくさんの方の冥福を祈ります。

資料館もあったけど、着いた時間が遅かったので閉まってた。
三方ヶ原合戦はわかっていないことが多いそうなのですが、犀ヶ原古戦場についてはここであったことがはっきりしているそうです。

あと、何故か鼠小僧次郎吉の墓があった。 


本田肥後守忠真顕彰碑
三方ヶ原合戦の撤退時の殿[しんがり]になった武将。
武田勢に斬り込み、39歳の若さでここで亡くなったと言われているそうです。





浜松探索して思ったのですが、何故か家康についてはここ浜松では情けないエピソードが多いです。
毎回敗戦エピソードで、
・屁をこきながら通ったヘッピリ坂
・這うようにして登ったハン坂
・逃れる際に小豆餅を食い逃げして店のばーさんに2km追いかけられた(ちなみに捕まって金払わされた)
・背負われながら「喉が渇いた!」と大騒ぎして、そこに梅の木があるから!と言われて唾で喉を潤した。 等。
確かに言われてみれば、先祖代々住んでた三河でもなく、頭角を現した江戸でもなく、晩年を過ごした駿河でもない。
ちょうど織田・武田・秀吉に振り回されていた時代に住んでいた場所。
当時もちょっと情けない殿さまって思われてしまっていたのかもしれませんね。


ちなみに、関東民の自分の家康イメージは「老獪なおじーさん」。
江戸に来てからのイメージなのかもしれません。

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