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あきいろ道中記

旅行や城めぐり等のレポートを記載して行こうかなと思っています。

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浜松城と家康めぐり。

2015年5月


浜松城中心に浜松家康めぐりしてきました。
家康の散歩道」と言う家康関係の史跡地図も浜松市が提供していたし、あらやだ便利―と思って。

一番行きたかったのが、信長さんのせいで家康に暗殺?された家康の正室の築山殿の死去地「太刀洗の池」だったので、一番駅から遠いそこまでバスで行ってスタート。


一旦博物館前でバス降りて、歩いて5~10分くらい。結構坂がある。


信長さんの娘さんが家康-築山殿の息子の嫁さんだったのですが、
息子夫婦が上手くいかなかったこともあり政略の犠牲となってた、と言われていますね。
ただ、息子さんの信康は切腹なのに、築山殿は暗殺ってのがちょっと疑問には思っていたり。



ずっと別居していた旦那さんに呼び出されて、期待と不安でドキドキしながら浜松城に向かっていたら、突然の暗殺‥‥とかだったら、って思うと、なんとも切ないです。
ちなみになんで築山殿の肩そんなに持つの‥‥って言われると、好きな小説「女にこそあれ次郎法師」に出てくる築山殿がプライドが高いがゆえに素直になれないツンデレお嬢様でかわいかったから‥‥´▽`;
女領主 井伊直虎(家康部下の井伊直政の叔母)主人公の小説。おもしろいよ!


一旦、浜松市博物館まで戻る。
蜆塚遺跡(縄文時代約3000-4000年前)があったので、住居跡(復元)に入ったりして遊んでみた。
あと林にリスとかいた。
 

 
もちょい奥にある旧高山家住宅もおもしろかった。
浜松湖で漁業・農業を営んでいた高山家の住居。安政(1854-1860)の頃分家し、古い建物を購入・移築したと書いてあったので、安政よりも古い建物なのかしら?
江戸時代終わり頃の浜松湖東岸での標準的な住まい、だそうです。
床上2間、土間1間‥‥結構広い。




わりと長居した。
浜松市博物館に入りました。
写真撮影OKだったんですが、ブログにUP OKか聞くの忘れてた‥‥。
中は小さめですが、体験コーナーが多くておもしろいです。
銅鐸鳴らせたり!(うるさいし、めっちゃ響く)
本物の土器触れたり!!(縄文・弥生・戦国で触感比べられる)
火打ち石叩けたり!!!(火花散らないし、鉄で手がめっちゃ臭くなった)
火打ち石、気にはなるけど‥‥ってずっと思っていたので、試せて楽しかった。
買っても使いどころがないし‥‥。キャンプ‥‥。

古代は川に太刀を奉納したりするんですね。嵐や洪水の時はわかるけど、定期的にやるものなのかしら。あと呪符(複製)とかあった。
蜆塚遺跡の博物館なので古代が半分くらいで、残り半分で戦国~近代。
家康没400周年だっけ?で、家康関係の写真展示も色々でした。
知らないのもちょいちょいあって面白かった。




西来院
築山殿のお墓があるお寺さんです。
いわゆる観光寺ではないですし、築山殿のお墓は檀家さんのお墓があるエリア?のようでしたので、本堂の前で手を合させていただき帰りました。
後で地元の方にお聞きしたところ、本堂でお寺さんにご挨拶して、築山殿のお墓をお拝ませていただけないかお願いすれば、拝ませていただけるようです。


行く途中の道路に西来院の石碑。昔はここまで参道?だったのかな。
今でも参道なのかな。



普済寺
三方が原の戦火で焼失して、昭和に再建されたお寺。
昔は月の名所だったそうです。消失した時に色々なくなっちゃったのですかね。

ちなみに立ち入り禁止看板があった。幼稚園もあるもんねぇ。


浜松城



作左曲輪前の、昔の浜松城の地図。木でできててなんかかっこいい。



作左曲輪

家康さんちの重鎮の本田作左衛門重次の住居があったところ。鬼作左さん。
昔の米倉があった場所なので、城にとって大事な米倉の守護としてもここに住んでたのかな。


浜松城の石垣と天守閣。

正直、浜松城で大事なのは模造天守ではなく、昔から残っている石垣なのである。
野面堤って言う、加工してない石をそのまんま積んだ古い石垣の積み方。
良く崩れないよねぇ。
個人的には、この積み方かっこよくて好き。




地下に井戸がある。こわい。なんか出そう。


当世具足(戦国時代の甲冑)の開き図面とか、
謎の四角い酒樽とか(どっから酒出るの)
刀の二条城勤番者外拵、所司代拵とかも面白かった。わりと一般の武士の刀って見かけない。
室内用薙刀、室外用薙刀とかも。

天守門。
2014年3月に史実を元に伝統工法で復元されました。
中にも入れるし、中には石落としとかもあるよ!




夏目二郎左衛門吉信の碑
三方ヶ原合戦の時に、家康の身代わりで亡くなった家臣さんの碑。



犀ヶ崖[さいががけ]古戦場
浜松城から北1kmにある崖。当時長さ2km、幅50m、深さ40m程度。
三方ヶ原合戦の時に、家康軍の夜襲の罠にひっかかって、武田軍のおおくの兵がこの崖に落ちて亡くなりました。
家康軍も逃げてるだけではなかったんですね。
今はだいぶ埋め立てられていて、深さも1/3~1/2くらいになってますが、それでも覗くと怖いくらいの高さです。
戦とは言え、亡くなったたくさんの方の冥福を祈ります。

資料館もあったけど、着いた時間が遅かったので閉まってた。
三方ヶ原合戦はわかっていないことが多いそうなのですが、犀ヶ原古戦場についてはここであったことがはっきりしているそうです。

あと、何故か鼠小僧次郎吉の墓があった。 


本田肥後守忠真顕彰碑
三方ヶ原合戦の撤退時の殿[しんがり]になった武将。
武田勢に斬り込み、39歳の若さでここで亡くなったと言われているそうです。





浜松探索して思ったのですが、何故か家康についてはここ浜松では情けないエピソードが多いです。
毎回敗戦エピソードで、
・屁をこきながら通ったヘッピリ坂
・這うようにして登ったハン坂
・逃れる際に小豆餅を食い逃げして店のばーさんに2km追いかけられた(ちなみに捕まって金払わされた)
・背負われながら「喉が渇いた!」と大騒ぎして、そこに梅の木があるから!と言われて唾で喉を潤した。 等。
確かに言われてみれば、先祖代々住んでた三河でもなく、頭角を現した江戸でもなく、晩年を過ごした駿河でもない。
ちょうど織田・武田・秀吉に振り回されていた時代に住んでいた場所。
当時もちょっと情けない殿さまって思われてしまっていたのかもしれませんね。


ちなみに、関東民の自分の家康イメージは「老獪なおじーさん」。
江戸に来てからのイメージなのかもしれません。

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