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あきいろ道中記

旅行や城めぐり等のレポートを記載して行こうかなと思っています。

武家のごはん。と言うか米。

※カテゴリー「再現料理」ですが、今回料理はしてません。


室町…戦国時代くらいの武家で主に食べられていたごはん…お米は「黒米」と言うお米と言われているようです。
当時の再現料理を食べたことがありますが、現代では黒米はあまり食べられていないため高価であり、そのため白米と混ぜての提供と書いてありました。

いつか、黒米を購入出来たら、黒米だけで炊いた当時の武家のごはんを食べてみたいなぁと思っていたところ、なんと売っているのを発見したため、
炊いてみました100%黒米!!!!


漆黒。



味は普通においしいお米です。ちょっと玄米っぽいかな?
ちなみに、普通の白米みたいによく精米したら、普通に白米になるらしいです。(精米は試してない)
本当にこんなに真っ黒のお米だべていたんですかね…。


こっちは白米に黒米混ぜたごはん。すごく赤飯感。味と香りも。
現代では、こんなかんじに雑穀米風に食べるのが普通なようです。
古代米として売ってたりします。








おまけ。
醤油より前の時代に使われていた調味料煎酒[いりざけ]が近頃気軽に買えるようになって嬉しい。
個人的にはサラダにお勧めです。
確か、醤油は文献に出てきたの関が原の数年前だかそれくらい?なので、江戸時代初期くらいまでは煎り酒のが使われていたんじゃないかな…と思う。多分。


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新潟 上越市 柿崎城

2016年8月

柿崎景家(上杉謙信の部下)の居城と言われています。
入口には、木崎山って書いてあります。
柿の市部分どこ行ったんだろう。


柿崎駅から歩いていける。入口が分かりにくいのですが高速道路に囲まれた山…と言うか丘で、川の土手から入口に入れました。


怪しいトンネルを抜けると…そこは二股の道。
なお、どっちから登っても頂上につきます。

蟹がいる…。
さわがにじゃない?とか言われた。



藪だらけでよくわからないからかもですが、遺構っぽいところは見あたらず、頂上だけ平坦になっており、展望台?があります。



この山(と言うか丘?)だけだと、戦の守りは無理かなーって登ったところ、これはなかなか眺めがよい。
流通にも戦にも便利そうな川が横に流れ、目の前には大きな海。
多分流通街道も海の前にあったんじゃないかな。監視とかによさそうかも。
もしここに居城あったなら、この山の麓にお屋敷があって、物見のための山ってかんじかも!とか思いました。

高速道路側に看板。こっちは「木崎城」じゃなくて「柿崎城」だった。


あと、高速道路につながる出入り口?があったので、なんかあったときの避難とか、高速道路工事の人が入り入口と過なのかも?とか思いました。

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最近のおでかけ

高尾山に行ったりしました。
あときのこ祭り的なものとか。

夏の新潟旅行も結構いろいろ回ったなぁと言うか、自分でも気味が悪いくらい春日山うろついた。

そこらへんも近々記事書きたい気持ちです。

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柿崎時代祭

2016年8月


柿崎時代祭にあわせて柿崎家文書展示やってたので行ってきました。


会場につくと、スピーカーから聴こえる
「か~きざ~き かっげいえくん♪」
※地元のゆるキャラ、かきざきかげいえくんのテーマ
\ゆるい!!!!!/


地元の太鼓団体、謙信流太鼓、山梨の太鼓団体の太鼓演奏とかありましたよ。
お祭りの太鼓っつーたら同じようなものかなーと思ったら、全然違って面白かった。
山梨(だったと思う)のが、一番自分の地元である関東と音が似てて、馴染みがありました。
やっぱり近い土地のが、似た音になるのかしら。

上越の軒猿衆、上田の真田の方々演じる柿崎vs武田の戦いなどもあり、
地元のちびっこに「がんばってー><」とか言われる柿崎景家。ほのぼの。
 
真田昌幸さんvs柿崎景家さん。 

そして会場の旗印が二股大根。
※柿崎景家さんの戦で使う旗の家紋的な絵が、大根。(蕪とも言われてる)
(とか言って、あの二股大根実際に使われてた旗印だったらすみません)
(なんか、これ以外も会場のさりげないお笑いセンスがすごいよかった…。全体的に。)

戦のあとには、ちびっこ殺陣教室などもあったよ。
かわいい。


地元にうまく楽しく密着した、いいかんじの時代祭でした。
おもしろかった。
屋台の食べ物むっしゃむっしゃしながら見てた。




ところで、柿崎駅近くの海水浴場がすごくきれいで感動しました。
白い砂浜じゃなくて、灰色の砂浜だった。砂粒大きめ。
砂質が、川の砂浜っぽいかんじ。

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柿崎家文書特別展示

2016年8月


柿崎家文書が、上越市に寄付された記念の特別展示行ってきました。
学芸員さんの展示説明も!


展示されている書状は前から存在は確認されていたものなので、1通を除いて上越市史の上杉家文書に掲載済み。

学芸員さんの説明で面白かったのが、
普通の人は書状が展示されてても何を書いてあるかはわからないことがほとんどだけど、書状の折り跡や年月による焼けで欠けた書状の形から、元の畳み方を推測するのがおすすめ!って話。
手紙をどんな形で持ってきたのかが、焼け方でわかりますよって話で、ほんとだ!!と。

(ところで、↑の紙の一部で結ぶのってほどけないのかしら)

折り方でも、書状の重要度とか各家の作法とか違うそうなので、覚えるととても楽しそう。
墨の色や、文字の細さでも決まり事があるんですって。め、めんどくさ…。
 けど、そういうのって外交にすごく大事な部分で、各家の礼儀なども熟知してないといけないはず…。
柿崎景家さんはそんな外交奉行だったので、知能派だったと思いますよとのこと。
自分も、柿崎さん外交奉行ってことは頭いいと思う!って主張していたので嬉しい…。


あと、これらの書状を「柿崎家が」持っていたことにも意味があると。
柿崎家宛てじゃないものがあったり、
柿崎景家が処刑されたであろうことを示す文章があったり。
(亡くなった理由に、病死説と謙信に処刑された説がある)

あと、景勝が謙信生前から後継者扱いされてたかどうかがわかりそうな書状もあるけど、うまい具合に大事なところが読めなくなってて、これが読める状態ならなぁとか。
わざと読めなくさせたってこととかはないのかなーと、聞きながら思いました。


説明もわかりやすく、とても面白かったですよー。


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