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あきいろ道中記

旅行や城めぐり等のレポートを記載して行こうかなと思っています。

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直江津 御館と八幡宮

2015年8月

御館
上杉謙信が、関東から謙信を頼って逃げてきた上杉憲政のために建てたお屋敷。
お屋敷って言うか、お城です。
謙信も政庁として使ってたそうな。
現在、主郭の一部が御館公園となってますが、説明看板以外は見事に何にもないですねぇ…。
本当に、御館の乱(謙信の義息子たちの後継者争い)で見事に焼かれてしまったのだなぁと感慨深いものがあります。




府中八幡宮
八幡宮は武人の守護神だそうで、長尾家(上杉謙信の家)も寄進したりしてたそうです。
長尾為景(謙信の父)が春日山城 鬼門守護の霊社としてたとか。
謙信が輝虎名義で奉納した奉納額があった。
狛犬が、頭のところがだいぶ削れてるのか、元々こういう形なのか、不思議な形をしていました。

徳川さんちから奉納された御神馬像とかもちょっと気になる…。
   

お社の裏手にいたたぬきがすごい気になる。たぬたぬ。

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戦国時代の小田原城

2015年9月


戦国時代…北条さんち中心に、小田原城巡りをしてみました。

今の小田原城天守閣も昔から小田原城ですが、あくまでも一部なので、色々跡地見に行ってみたいなと。
前回は石垣山のついでに寄ったので東曲輪のみでしたが、今回はぐるっと回ってみました。

廻ったのはこんなかんじ。
 


①鍋弦小路
江戸時代藩士の家があったらしいよ。

②金毘小路
 江戸時代稲葉氏時代に藩の御細工所、大久保氏時代は藩士の家があったそうです。

③八幡曲輪
裏大門と呼ばれていた場所で、中堅家臣の屋敷があったそうな。江戸時代。


④百段坂
多分、幕末地図で百段坂と呼ばれてた坂。
この階段左いったところが、北条氏祭祀 伝本丸八幡 があったそうです。
更に左が本曲輪。
階段登ったところ左に西曲輪と三味線堀、
右に鍛冶曲輪です。


⑤本曲輪(本丸)と西曲輪
西曲輪は現在は高校の敷地。
三味線堀、堀障子、井戸などが発掘されとります。(今は保護のためにも埋め戻されてる)
その外周が散策路になっており、本曲輪まで歩けて、本曲輪の土塁が見られます。
もうちょっと行った先の高校の南門よりちょい下が曲輪っぽくなってた。
そこは藤原平南堀ってところかな。


⑥八幡山(ここら全体が八幡山)
石碑があるよ。

⑦鍛冶曲輪
江戸時代の稲葉さんの刀工藤原清平さんが住んでいたそうなので、鍛冶曲輪って名前なのはそのためかも?
ただ、戦国時代から重要な曲輪があったとは言われているそうです。

⑧御前曲輪、別名人質曲輪
戦国時代の祭祀遺構らしき敷石遺構が発掘されてるそうです。
敷石でそんなのわかるのか…。普通の敷石となにが違うのか気になるところ。
なお、なんで御前曲輪、人質曲輪と言われてるかはわかってないそうです。


⑨毒蝮平
名前がかっこいい。
けど、蛇じゃなくて植物らしい。あと、別にその植物がここにあった記録はないらしい。
…名前だけが、残ってるの…?
公園になっておりまして、土塁が見られます。

⑩小峯御鐘ノ台大堀切東堀
ばかでっかい堀切です。土塁もあるよ!
堀切の底を歩いて行けるのですが、堀切の大きさを感じられてとても楽しいです。
堀障子、土橋の堀残し、横矢折れ(クランク部分)も発掘調査で見つかったとのことですよ。



⑪三の丸外郭新堀土塁 歴史公園
ちょっとわかりにくいし、開放時間(10:00~15:00頃)が決まってるので行く人は注意です。
小峯御鐘ノ台大堀切東堀を越えてすぐの学校脇に下写真の目印があります。


この公園からは、豊臣秀吉の小田原城攻めで使用された石垣山(一夜城)、富士山砦(細川忠興陣地跡)が間近に見えます。また、海も目に出来る箇所。
目に見える範囲全体が敵で覆われていた当時の小田原城の恐怖の一部を、少しは感じ取れた気がしました。


この公園自体の見せ場は土塁と新堀。
新堀は何で新堀って名前なのかはわからない…。なんのための堀なのかしら?


⑫東曲輪
本曲輪のちょっと下のところ。
現小田原城天守閣を一番いい位置で観れる場所だと思います。

⑬現小田原城 銅門・住吉橋・馬屋曲輪・馬出門・馬出門土橋
銅門の天井のところがかっこいい。


住吉橋の門。この門と銅門の間も虎口になっててかっこいいよ。


馬屋曲輪、わりと説明看板が点々と。読んでるとちょっとおもしろい。


 
切石式井戸。これは発掘されたのを模して作ったっぽい。
雁木。発掘されたのも何故か斜めで設置されてたらしい。
これは発掘されたのを模して作ったのだろうと思う。


⑭現小田原城 東堀~本丸~御用米曲輪
東堀 本丸は元々は堀で囲われていたそうな。


今改修中の天守閣。
右は常盤門横のでっかい松。でかい。


御用米曲輪は今は入れないのですが、戦国時代の地層での発掘調査中です。
道すがらに発掘調査結果や、その写真が掲載されていて、読みながら歩くのが楽しいです。
発掘結果楽しみですね。





北条さんのお墓。
小田原駅 小田原城側の出口出てすぐの「おしゃれ横丁」と言う商店街にあります。
左から、北条氏照(小)・氏政(中)・氏政夫人(大)の墓碑(いずれも、伝・墓碑)
手前真ん中の平ぺったい石は氏照さん・氏政さんがこの上で切腹したと伝えられているそうです。
商店街の通りにひっそり唐突にあります。
綺麗にお掃除され、お花も飾られており、ちゃんと供養されているんだなーって思えて、素敵なお墓でした。
ところで、何で夫人のお墓が一番大きいのかしら。なにか謂れとかあるんですかね?





このほかにも、街中あるいているとたくさんの石碑があります。
この場所はどんな謂れがあるのか~とか記載あって、探しながら歩くのも楽しいです。

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舞鶴城(甲府城)

2007年8月 昔の記事を修正したものです。



左:復元門。右:天守台
家康のお城。

建物はないけど、なかなか立派に残っています。
櫓とかは復元されてるの。
天守に登って思ったけど、山城と違ってやっぱりまわりが見渡しづらい。

この時、かなりの雨であまり回れなかったので、いつかまた来てみたいですね。

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要害城・躑躅ヶ崎館跡と武田24将屋敷跡

2007年8月 以前の記事を修正したものです


甲府。風林火山展やってました。


積翠寺までの観光バスがある~と書いてあったのでバス乗り場に行ってみたのですが、バス、1時間に1本。時間もないことだし、タクシーにて要害山入口まで向う。

タクシーの運転手さんによると、最近は大河の影響で武田神社に人が来るようになったけど、その前にやってた『天と地と』って大河で武田VS上杉が有名になるまで、武田神社は『観光地』ではなく、地元の人がお宮参りや初詣に来るような、どこにでもある神社、と言う感じだったそうです。意外。
信玄と謙信の戦いっつーたら江戸時代には人気だったはずだけど、明治・大正と言った辺りに廃れてしまっていたのですかね。


要害城

要害城は武田信玄のお父さんの信虎が作った城。
政治と居館は躑躅ヶ崎館、要害城は攻められたときに籠る城です。
信玄のお母さんが信玄を身篭っているとき、敵が攻めてきたので要害城へ避難しようとしたが、身重で山を登れず、積翠寺に隠れて武田信玄を生んだとかなんとか。

積翠寺温泉・要害の入口に、要害山の登山道入口があります。

甲府市役所HPに『散歩道』と記載されていますが、どちらかと言うと山道ハイキング。
登る途中で竪堀、土塁、曲輪などがあり。



武田不動尊像。
中腹辺り。この像は江戸時代後期に建てられたのこと。

最後の門跡を越えると、主郭部跡があります。
設置してある碑は『要害城跡』でなく『武田信玄誕生之地』


360度要害城主郭跡。
長方形の空地。周りは土塁が見られます。
庭園に用いられたと思われる石もある~と看板に書いてあったので、建物だけでなく庭もあったみたい。
東西73m、南北22m。





積翠寺
武田信玄が生まれたところ、かな。
積翠寺の井戸の水で産湯を使ったそうで、井戸が現存しています。
あと、武田信玄が和歌の会とかよくやったらしい。(武田信玄、和歌が趣味)
昔は石水寺と言う名前だったそうです。

右の堂は入って左手にある不動堂(だと思う)。
この堂と本堂の隙間の道を入って、裏手に庭があります。
お庭にお邪魔すると、日本庭園になっていました。
その先に信玄の産湯の井戸。


竜宝の墓

↑これがお墓なのかはよくわからなかったが、ここら辺が信玄の次男竜宝のお墓と伝えられているそうです。
生まれつき目が不自由で、早くから仏門に帰依していた人。
入明寺と言うところで武田氏滅亡の際に自害したので、そっちにもお墓はあるそうな。


信玄公墓所

ここに埋められているわけではなく、ここで火葬したと言われています。
遺体がどこにあるかは謎。
遺体を隠したため、色んな説がありますねぇ。
個人的には諏訪湖に沈めたって説が何かロマンがあって好きです。


躑躅ヶ崎館跡こと、武田神社
武田信玄のお屋敷です。


大手門跡

左:大手門、躑躅ヶ崎館外から。  右:大手門、躑躅ヶ崎館内側から。

今はないけど、大手門の前に三日月側の堀があったとか。発掘作業中。
山本勘助が考えた堀とかかいてあったようなそうでないような。
発掘したら、確かに堀の跡があったそうです。

武田神社宝物殿
個人的に非常に気になった具足…。何故か1つだけ、食べ物が供えられてる…。
なんとなく、夜になるとこの具足が勝手に動き出す光景を想像してしまった。

信玄公御使用井戸


姫の井戸
武田信玄の娘さんの産湯にしようしたと言われているそうです


武田水琴窟。
これは江戸時代に入ってから作られたみたいなことが書いてあったような気がします。


堀や土塁のような、昔の姿も多少残っています。
あまり人の来ない、こんな道。
武田信玄がこの道を歩いたりしたのかな、なんて考えると楽しくなります。


梅翁曲輪の堀(現在住宅)






以下、家臣団屋敷跡。
要害城から歩いて見つけた順に記載。
現在住宅になっている部分は写真非掲載にしています。
どこも看板があるので見つけやすいです。

武田刑部少輔信康屋敷跡
現在田んぼ。武田神社こと躑躅ヶ崎館の大手門から見て左後ろ。


小山田左兵衛門尉信茂屋敷跡
躑躅ヶ崎館左裏。現在駐在所と住宅があります。

土屋右衛門尉信続屋敷跡
小山田さんの更に裏。小山田さんとお隣さん。現在住宅と空地。

山本勘助晴幸屋敷跡
躑躅ヶ崎館裏から500mくらい。現在住宅。右側公園。


真田源太左衛門尉信綱屋敷跡
躑躅ヶ崎館かた見て勘助屋敷の斜め左手前。現在住宅。

内藤修理亮昌豊屋敷跡
梅翁曲輪の横。現在住宅とゲートボール場。

板垣駿河守信方屋敷跡
同じく梅翁曲輪の横。内藤のお隣さんで躑躅ヶ崎館大手門側。現在住宅と畑。

馬場美濃守信治屋敷跡
躑躅ヶ崎館左で穴山・高坂屋敷の後ろ。屋敷かなり広い。現在住宅。

穴山玄蓄頭信君屋敷跡
躑躅ヶ崎館左。現在は空地と住宅であり、武田神社入口正面。

★要害城から歩いてくると、ここで躑躅ヶ崎館跡こと武田神社に着きます。

高坂弾正忠昌信屋敷跡
躑躅ヶ崎館大手門からすぐ左。現在は住宅。
大手門のすぐ近く。
高坂んちから、躑躅ヶ崎館(の大手門方向)をみた写真。
石碑は太平洋戦争かあの辺りの慰霊碑みたいでした。


真田弾正忠幸隆屋敷跡
高坂のお隣さん。大手門寄り。
武田三弾正の攻め弾正ですね。(高坂が逃げ弾正、保科さんが槍弾正)
有名な真田幸村のおじーちゃんです。信之とか幸村も子供の頃ここに住んでたのかな?

横田備中守高松屋敷跡
真田さんちから大手門前を過ぎたところ。躑躅ヶ崎大手門右手。現在田んぼでした。

甘利備前守虎泰屋敷跡
真田さんち左斜め前。護国神社の入口前に看板アリ。住宅地です。
こっそりしたとこにあるので、探すとき注意。

山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡
住宅と学校。学校の裏門?に看板。何故か看板が一番ボロボロ。
武田の赤構えで有名ですね
最初に赤備えしたのが飯冨さん?で、他にも小幡さんと浅利さんが赤備えしたらしい。
真田と井伊はこの赤備えの伝統から来たみたいですね。


小畠山城守虎盛・小幡豊後守昌盛屋敷跡
山県さんちのお隣さん。学校と団地。学校正門に看板あり。

馬場美濃守信春屋敷跡
穴山さんと高坂の屋敷の後ろ。でも二人分の屋敷と大きさ同じ。住宅地。

多田淡路守満頼屋敷跡
板垣さんちの後ろ。住宅地。

原隼人佑昌胤屋敷跡
三枝さんちのお隣さん。畑と住宅。

三枝勘解由左衛門守友屋敷跡
多田さんと原さんちの真ん中。住宅地。

一条右衛門太夫信竜屋敷跡
一人だけちょっと離れたトコ。ファミマと住宅。


武田典厩信繁屋敷跡
住宅地。流石信玄の同腹の実弟で腹心だけあって、おうちでかい。

秋山伯耆守信友屋敷跡
信繁さんちの後ろ。大学校門前。


飯富兵部少輔虎昌屋敷跡
秋山さんちと道を挟んで斜め後ろ。大学校門前。


これにて、武田24将屋敷跡クリア。



家臣団のお屋敷と、武田信玄のお屋敷の近さがとても印象的でしたね。
信頼してたのかなーと言うのが感じ取れて楽しい散策になりました。

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高田城の蓮の花

ちょっくら新潟 上越 高田城に行ってきました。
蓮の花は終わりかけではありましたが、それでもとても綺麗でしたねー。

高田のホテルに泊まったのですが、蓮根料理や蓮の実の甘露煮とかがありまして、大変おいしゅうございました。




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